聡は、実父に愛着を感じない。
小学校三年までは一緒に生活をしていたのだから、当然顔も覚えている。だが、記憶に残る父の存在は、よほど尊敬に値するモノではない。
それは母も同じだろう。
再婚後、泰啓の事務所を手伝っている母の育代。
その仕事中にかかってきた電話の直後から妙に不機嫌となり、さすがに泰啓も無視できなかった。
「離婚してからもう何年も経ってるのよ。事故で寝たきりになったからって、どうして私が世話をしなくちゃならないワケっ! だいたいっ 私に連絡してくるコト自体、おかしいわよっ」
その日から、育代は常にイライラしている。些細なことでもヒステリーを起こすようになり、泰啓に当たることもあった。
寝つきが悪いとも言っていた。
「お前を怒鳴ったのだって、別に悪気があったワケじゃ、無いんだよ」
階段を三段上がったところで自分を見下ろす聡に向かって、泰啓は軽く肩を竦めた。
「昏睡状態に陥っていたようだが、昨日の早朝、亡くなられたそうだ」
できるだけ冷静に話そうと試みているのが、聡にもわかる。
「母さんを、許してやってくれ」
そう宥められて、聡はなんとなく気恥ずかしさを感じた。
カッとなって飛び出した自分が、ひどく幼稚に思えた。そして、さっさと戻って来れなかった自分をも、ひどく情けなく感じた。
「別に………」
だがその先に言葉が見つからず、逃げるようにもう一段上った。
そんな聡の背中へ向かって、泰啓は慌てて声をかける。
「空手が嫌なら行かなくてもいいさ」
要は母に少し、静かな時間を与えてやりたいだけなのだ。
「男同士で京都旅行なんて、風情も色気もないけどな」
そう付け足して泰啓は、リビングへと姿を消した。
正直、空手の試合には興味を惹かれた。
中学卒業まで…… そう、ほんの一年ほど前まではやっていたのだ。
別段実力があったというワケではない。やっていない者よりかはそれなりに威力があるだろうが、蹴りも身のこなしも、それほどすごいモノではない。
頭で考えてコトを成すのが得意ではない聡。地道な基礎練習にもあまり熱は入らず、試合中に相手の動きをじっくり観察するような洞察力もなかった。
フィーリングで勝手気ままに体を振り回すだけの、他人より少し勝った運動神経と体格の良さが武器となり得たのは、せいぜい小学生まで。中学にあがってからは、自分より小さな選手に負けることもしばしばあった。
だが聡は、それでも空手がおもしろかった。
「さっすがだなぁ〜」
自分を負かした相手を素直に認める聡の態度は、周囲には好評だった。
もともと聡は、人に好意を持たれやすい。本人に自覚はないのだろうが、聡の周囲は常に賑やかだ。
聡も、人とのコミュニケーションは嫌いではない。友達とワイワイ会話をするのは好きだ。
だからだろうか? 数学のようなじっくり考え込む教科より、英語の方が得意だ。長文などは、単語の意味などわからなくても前後の文章や直感で理解できてしまうことが多く、逆に長文を使って単語や文法を覚えてしまう事もある。
思いっきり体が動かせる空手も好きだったが、みんなと楽しく過ごせる時間が、なにより好きだったのかもしれない。
空手と美鶴。あの頃の聡には、それがすべて―――
だが、そんな聡は今、空手とは離れている。
唐渓には空手部などないし、近くに道場があったとしても、今は美鶴が最優先だ。何より、母が空手を喜ばないだろう。
そもそも小学三年の時に離婚した時点で、空手を続ける意味はなくなっていた。
「空手教室なんてやってるらしいぞ」
チラシを持って帰ってきたのは、実父だった。
「やってみたらどうだ?」
その時、聡は小学一年生。父の意図など、知る由もなかった。
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